昭和47年10月23日 月次祭
とは、本当な事だと、と云う事を此の頃から、繰り返し頂いております。その事を前講で三橋先生が話しておりました。本当に本当な事本当な事をさせて頂かなければならない。と言って、それを思わせて頂くと、今まで本当で無かった事の多いのに驚くと言う意味の事を話しております。やはり真で成就せん事は無いと仰るし、又は本当なこ事すれば、本当なおかげが受けられる道理で御座いますから、ね。
やはり嘘のおかげより、ね。もうそれこそ、吹けば飛ぶようなおかげではなくて、それが本当に、神様が喜んで下さるおかげとでも申しましょうか。そう言うおかげを頂きたいもんだ。為には、一つどうでも、私共が真にならなければならない。いわゆる本当な事をさせて頂かなければならないね。そして本当な事をさせて頂こうと、精進させて頂くとです。もう本当に、目の粗い自分が気が付かせてもらう。本当でない自分が、気付かせてもらう。そこで敬虔なお詫びが出来る。
心からお詫びが出来るね。詫びれば許してやりたいのが親心と仰るのですから、出来ん所は詫びて行く。今御神前に出らせて頂いたら、日章旗が旗にこうはためいている所、風に。そして次には無風状態でこぅだらっとこう、下がっている所を頂いた。次には雨で濡れてその、ああ旗がね竿にこう巻き付いておる所を頂いた。ね。それこそ歌の文句ではないですけれども、「磨いても磨いても、磨けつならば、時々は浮気の錆が出る」といったようなものです。ね。
根が凡夫で御座いますから、ね。それこそ何処にお粗末が、御無礼があるやら分かりませず。または知ってのご無礼もさる事ながら、知らず知らずのご無礼はもう、限りがない程で御座いましょう。ね。それを本当な事真の事をと心に焦点を置いて、日常生活の上に、その事を思わせて頂いておりますと、もうちょっと心掛ければ、本当な事が出来ることが沢山あると云う事です。ね。
心掛けよっても出来ない事があるんだと。ね。さぁお天気の良い日には、それこそこぅ風でも少しあると、ね。はためいておる。勇ましいまでに、いわゆる日章旗がこぅ風に翻っておる。ね。けれどもなぁんでもない。別に痛いもなきゃ痒いもない。食べることに不自由もしないと、結構毛だらけの様な状態の時になると、かえって有難いと言う信心が出来なければならんのに、こぅ、でれっとなってしまうと云う様な所も、お互いある様ですね。ね。かと言うと、ほんならお湿りの、なんかある時にはです。
もう分かっておるんだけれども、やはりこぅ竿に巻き付いてしまっておる。 今日もある朝のご祈念の後に、ある総代さんがお届けをされました。本当に先生もぅこの頃ね、黙って治めると云う事の素晴らしい事ね。もうそして黙っておれれると言う自分自身が有難い。有難いだけではない。言うたりしたりして見せたりするよりもです。黙っておかげを頂いて行く、自他共に助かって行く事の素晴らしさを、この頃身に着けた様に思うておる。もう是で行くが一番とこぅ思うておるね。
そら信心の有難い。「所が先生、昨日ばっかりは失敗しました」と言う。子供さんとの間にお母さんは喜んでくれるかと思いよる所が、子供さんがあんまり喜ばん。グーッとしとる。それでもあんたばっかりはち言う訳にはね。そして言うてしもうてから、はぁ此処で言うんじゃなかったと思うたけれども、もぅあとの祭りだとこぅ言う訳です。それこそですね。私共がその磨いても磨いても、磨けつでありますからもう磨きやめると、もぅ錆が出る。いわゆる本当なものに、血に肉になっていない証拠だ。
けれども私は、今晩皆さんに分かって貰いたいと云う事はね。本当な事をすると云う事がです。ほんなら黙った治めると云う事が、本当な事だと致しますならね。その体験を積ませて頂いて、も黙って治めると云う事の素晴らしい。そら初めの間は辛いです。言うたほうが楽です。子供が言う事を聞かぬときに、言うて聞かせてほんなら言う事を聞かせると言うのも、それは良いですかれどもそれでは、言うて聞かせて分からせたのではなくて、黙って祈って分からせると言うのはもう、実に円満な分からせ方です。
素晴らしいです。そう言う体験を積んで、もう黙って治める事の素晴らしい事を体験させて頂いておるのですけれども、さぁそこが磨けつでありますから、凡夫で御座いますからね。虫の居所が悪かったり致しますと、言わんで良い事を言うてしもうて、あぁしもうたと思うのですけれどもね。だから私共はそう云う失敗がよしあってもいいと。けれどもね黙って治めると云う事は、此の様に素晴らしい事だから、失敗したと云う事を、神様に詫びる姿勢だけは作らせて頂ける所まで、信心を頂きたいと思うですね。
心が今いらいらしておる、落ち着きがない。こんな事じゃいかんこんな事じゃいかんね。そこで御神前に出らせて頂いて、大祓いのひとつもあげよると、心が落ち着いて来る。不思議に落ち着いて来る。その落ち着いた心で言わせてもらい、または行わせて頂くと云う様なおかげを頂けば良いのですけれども、いらいらしたなりに言うたり、いらいらしたなり行うたりしております所にですね。失敗がある訳です。福岡の三代の吉木辰二郎先生が、まぁだお若い時分。
ある年末の親教会であります、小倉の教会にそのお歳暮に出らなければいけない.年末のお礼に出らなければいけない。けれども兎に角そら教会で、限らず何処でも忙しいですね、年末ですから。もう兎に角あれもしとかなならんこれもしとかなならん。とうとう今日も行かじゃった。まぁまた今日も行かなかったと云う様な時。もう仕方がないから長男をね、長男を自分の代わりに、何時も他の教会では、お歳暮にあの、のりを持って行かれる。まぁ亡くなられた親先生が大変お好きであった。
だから何時もそのちゃんともう買うてある。何時も行けれる様に。けれども今日も行けなった、また今日もと云う様な事だもんですから、とても是じゃ行けれん様にあるから、その、ご長男に「お父さんの代わりにひとつ、お礼参拝してきてくれないか」と。まぁだご長男が子供のときですから。まぁだ子供と云うが、ま子供上がりの時でありなさいましたでしょう。ほれで「汽車注意して、ちょっとそのお父さんが、こうこうだからと言うて、親先生に申し上げて。
それであのお詫びをしてから、お前が代参をしてくれ」と言うて、その準備をさせられて、出らせて頂かれた。ね。それでその今の親先生ですたいね。当時のまぁだ若先生が行かれる為に用意をして、神様にお届けをしてお願いをなさった。「只今から、子供を小倉にお礼参拝させて頂きます。本当は私が参りますのが本当で御座いますけれども、こんな訳で御座いますから、長男を代参させます。どうぞよろしう、道中無事で」と言うて、お願いをなさっておったらね、神様からね。
「本当な事をせよ」と仰ったそうです。「今こうするが本当だと、お前、言うておるじゃないか」信心とは、ね。「こうする事が本当だと言う事を行ずる事が信心ぞ」と言うお知らせを頂かれたと云う事です。ね。こうするがほんなこつと思いまするけれども。私も今日ちょこっとばっかり、じがじがいらいら色んな事でしよるね。それで丁度正義さんが、此処にここでちょうど居る時にね。それからあの背広姿で此処へ出て来ましたから、私がじがじがいらいらしとるとが、また余計いらいらしてきた。
なしかち言うと、今日から今晩から御本部へお礼参拝を致します。信徒会長総代さんに男の方に一人も出来ませんから、菊栄会の方たちが、四五人でま車二台に分乗してお参りをする事になっております。ですから勿論ね。私も大体分かってるんですよ。勿論この人達が分かっているはずだから、今日は正装制服で来るんだと云う事、ね。だから背広を着てるんです、そして制服をきっと持って来てるんです。持って来てるけれども、私が持って来とらんなら、どうか言わにゃんと思うた訳です。
それで心が落ち着かない。から、お祭りが済んでしもうてから、文雄さんに「今日あんただん、制服で行くごとしとるじゃろもんね」と言ったら、秋永先生が「はぁもう、んな電話で連絡しまして、ちゃんと制服は持って来とります。」と、こう言うのです。ね。是はね総代とかまたは、菊栄会でないなら、そんな事は私は言いもせん、思いもしませんね。是はそうです。如何に本当な事と申しましてもですね。例えば子供の本当な事と、大人の本当な事とは違うです。
大人の本当な事を、子供に言うて聞かせても、分かるはずはない。まぁだ信心の浅い人に、ね。御本部参拝する時には、正装でなからにゃならんてなんてんち、言うて聞かせたっちゃ分からん。ね。ですから本当と云う事もです。それが信心の段階による事なのですけれども、それぞれのその段階においてです、ね。もう、此処までは、分からせて頂いておるならば、分からせて頂いた事の本当だけは、私は行じなければいけない。もう自分は知っとる、そんくらいの事は。
知っとるけれどもね、それを行わないと云う事は、神様に対する所の怠慢である、無礼である。ね。知らないならいざ知らず、ね。本当な事と云う事は、決して私がしておる通りの事が、本当の事と云う事じゃ、まぁ私が本当な事をしておっても、私と皆さんが違っても良いのである。ね。菊栄会の方と松栄会の方は違っても良い。黄楊会は尚更また違っても良い。そこにおのずから、その人達の本当な事は、その人達の心の上に感じ取らせて頂いておる事でありますから。ね。
本当な事をさせてもらう。真とは本当な事だと。その本当な事を私共がね。分からせて頂いた範囲内でよいからそれを行じて行くうちに、より本当を悟らせてもらう分からせてもらう。またより本当な事をするから、より本当なおかげがそれに伴うて来る道理でありますね。其処、私共がですね。今日のその総代さんのお届けじゃないですけれどもね。いわゆる黙って治めると云う事の、本当な事であると云う事と同時に、その体験の素晴らしさと云う物を普通は自分で体験させて頂いておるのですけれども、ね。
こう、少しぐらい風があって、それこそ日の丸が、日の丸の旗がね。風になびいておる様な、勇ましさとか美しさと云う様な物がある時にはです、なんですけれども、私共がやれやれと言った様な時、いわゆる無風状態の時。痛うもなからにゃ、痒うも無いと言う時です。私共は決してこうでれっとなるのです、やっぱりね。けれどもそれが決して本当ではない。こんな事ではいけない、こんなこ事はいけないと思う心は怒らなければいけません。また次の機会に、しゃんとする事が出来ます。
ぐらいな事ではないいわば、雨の日などはですその旗は、も竿に巻き付いてしまっておる。もういよいよ駄目である。自分で、悲しゅうなるぐらいな時があるです。本当でない事を、ね。分かりながらもう出来ない。そこの所がです、ね。それこそ磨いても磨いても、磨けつであるから、時々は、何とかの錆が出るのでありますけれども、ね。けれども、その次に磨かせて頂くと言う。いや、本当の事をさせて頂いておる時の有難さと云う物をです。十分ひとつ、体験して貰いたいと云う事です。
ですからもうそう言う本当でない事は、早くそこから脱却しなければおられないと言う心が生まれてまいります。その様にして信心は、私は進んで行くんだと思うのです。ね。本当な事と分かりながら、それをいや怠慢無礼な事になってまいりまして、その怠慢無礼も、怠慢無礼と気が付かん様になり、ね。言うならお気付もお気付けと気が付かん様になり。そこから所謂大きなミスが出来て、所謂大怪我の元が出来るので御座います。ね。だから失敗したからと言うてです、私は悲観する事は要らん。
問題はそう言う体験を持っておくと云う事。黙って治めると云う事の素晴らしい事を。ですから、もう、そう言うた後に、しもうたと思いよる。そしてお詫びをしない。そして心を整えようと神様へ心を向けておる。その位な所ぐらいまでは、ひとつお互いの信心が進んで行きたいと思うのです。どうでしょうか皆さん。ね。それをねそれをこの、本当の事をしておる時と、本当な事ではない時とがですね、区別が付かん位な信心じゃ詰まらんです。はっきりそこに区別が付く信心。此処までは頂きたいね。と。
言うてそんならその本当な事もです、その段階を追うてからの事ね。例えて言うならば黄楊会または松栄会、または菊栄会または総代会ね。それぞれの信心の段階においてですね。こうする事が本当だ言う。だから菊栄会の者の真似ばせん、そら先輩ですから、真似はせんならん。またそれを頂こうと努めはしなければならん。けれどもなら菊栄会の様にまで出来なくっても、まぁ良いと云う事。ね。
松栄会には、松栄会におのずと、本当の事があるんだと雨事です。ね。だから私共の今現在本当だと思っている事が、どの程度の事かと云う事が、まず思うて見てね。もちっとましな本当な事に進ませて頂こうとする姿勢を、私は精進だと思います。ね。今朝から佐田さん達ご一家がお参りになってからです、佐田さんもお参りになる様になっとった。所がその、もちろん、自動車が乗られんか何かちったこう、窮屈かち言うごたる風に、誰かが言うたか何かでしょう。
ほんなら私がもうご無礼して、参りますまいと云う事になった。同時にまたうちでお店の方が、休まれる方があったりして、店のほうでも自分が居ったがよか訳です。それであのお参りをしないと言うお届けがあっておった。ところが今朝、ご祈念から帰りがけ、その、佐田さんが言われるそうですたい。その、「今朝方から、そのお夢ば頂いた」ち。「どげなお夢じゃったの」「それがあの、数字でね、389ち頂いた」そしたら、後ろに居られたそのお婆ちゃんがもう、間髪をいれず仰った。
「教祖さん、そりゃ3ち言う事は、参るち言う事ばい」ね。「参りゃ広がるち云う事、38じゃから、参りゃ広がる。参らにゃきゅうきゅうち言うこつじゃろ」ち言わっしゃったげな。はっははははは、それもほんなごて、もうそうどころじゃなかと思うてからね。しかし、神様ちゃ有難いでしょうが。是がほんなら同じほんなら、菊栄会なら菊栄会でもですよ。是がほんなら宮崎さんであるとか、ほんなら古賀さんであるなら、恐らくそこまではなかと思うですね。
こんな事情でほんなら、今日も古賀さんが参って見えて、明日こげなお参りしようと思うとったけど、こんな事情があるち言うたら、もう神様はすぐお許しを頂くんですもん。言うならば、少しばっかり段は違う訳です、同じ菊栄会の中にあってもね。是がほんなら、例えば正義さんか、文雄さんかがですね。ちょいと私は都合がありますけんでと、昨日言うとるならですねもうそん時に、お叱りを頂いたでしょうね。けどもそらそこにまた、佐田さんと、文雄先生あたり達の、違う段があるわけ。
それでも一時はこげんして話してござった神様が。「ぼんなら参らんでもよかばってんがら、今夜ゆっくり教えてやろう」まるきり、脅しなさる訳ではないけれども、なら脅してでも本当な事をさせようと、佐田恭三には、神様が求めておられると云う事なんです。そるけんち菊栄会の方達が、今夜またほんなら「俺も参ろ、俺も参ろ」ち言うたら今度は来るもんが無かった。(笑い)ね。そらだから段階を追うてなのですから。だからほんなら、私たちの信心の段階が、どの辺かと云う事を思うて見てですたいね。
ほんならもちっとはましのですたいね。本当な事をひとつ分からせて頂かなきゃいけない。どうですかね。参りゃ広がる参らにゃ「窮窮」ち言う。はっはは誰でん「窮窮」な事は嫌ですからね。そら今晩参ってきてからも「今日は、えらいお届けをしてすみません。おかげを頂きますから」と言うお届けが改めておりました。ね。神様はそう言う、例えばほんなら脅しの手に掛けてでも、本当な事をさせようとなさっておられるのですから。しかも這えば立てである。立てば歩めである。
それが親心なんですね。ようやくああたごそごそ這い出したつに、「はぁ歩け歩け」ち言うたっちゃ立ちもきらん。だから神様はそう云う事を求めなさるはずはないち。けれどももうたいがい這いよるのだけん、もう立ち習うたっちゃ良かろうち言う所に「さぁ立っち、立っちしてんね」と言うのですよね。もうこう立っち立っちが出来ると、ほんならいっちょ歩いて見らんかとこう言うのが、親心なんですからね。私共のその本当の事と云う物も、それぞれの信心の、それぞれの段階において違うと言う事。ね。
神様の願いの中にはね。本当に真な信心をさせて、真のおかげを与えたいと言うのが、一念なんです。ね。そこで真が追求される。真の信心が求められる訳であります。そして私共が真と分かっておりながら、こうする事が本当で御座いますけれどもね「子供を代参させますから」とこう言う「本当の事とお前今、言うておるじゃないか」その本当の事を行ずる事が信じんぞと、吉木辰二郎先生に神様が教えておられます。もうそれこそもうそのまま、吉木先生は、ね。
ご長男にもうチャット渡しておられたそれを、自分が又小倉行きのお礼参拝をなさったと言う話が残っております。ね。私共はだから是で良いと云う事は、決して何時もありません。何時もやはりそれこそお天気の日も、雨の日も色々ありますけれどもです、ね。何時も私共が動いておると云う事。しかも少しでも一歩でも神様のほうへ近付かせて頂くと云う姿勢を取らせて頂いておかんと、何時も同んなじ所で堂々巡りの信心が繰り返される事では詰まらんのです。去年も今年も同じではやっぱいけない。ね。
ですから所謂、本当な事を本気で行じさせて貰う事が、こう言うおかげが受けられる。こう言う心の状態、有難い状態になれれると云う体験だけ位は持って欲しい。そして自分にはね。少しは間違っておると云う事をですね。気が付かせて頂いたらね。其処からもう兎に角一時も早う、そこから脱却して本当な事にならせて頂こうと、姿勢を整え様とする信心ね。今日は皆さんにね。黙って治めると云う事が、此の様に素晴らしいと言う体験を作って、もう是で自分の血に肉になったのであろうかと云う程しに有難い。
所が、さぁ時々は浮気の錆が出るで、ちゃんと昨日は失敗しましたと。けれども言うた後にはもう、すぐお詫びしておられる。だからまだ本当なものではないと云う事。だから、本当のことをする事は、こんなに有難い、こんな体験が生まれると言う、その体験を頂き、そこまではです、頂いてもらいたいと云う事です。今日の私が、皆さんに言うのは、ね。それでもやはり、倒れる事もありゃ、転ぶ事もあるけれども、ね。
すぐ立ち上がって、また次の信心に進ませて頂くと言う姿勢をとらせて頂くと言う、ね。おかげを蒙らなければなりません。どうでもひとつ、本当な事。是はまぁ誰の上にでも、大体言えれる事、ね。参りゃ広がる参らにゃ「窮窮」、ね。そう言う信心の姿勢と云う物を、何時も取らせて頂いて、おかげを頂かなきゃなりません。私共は一時休みましたら、すぐ、御本部参拝の準備に掛らせて貰います。どうぞお初穂でもお託になる方は、事務所で準備してお出し下さる様にお願いします。
どうぞ。